野村洋三について
野村洋三の写真
世界へ挑んだ文化人
野村 洋三
__ おもてなしの精神を
胸に宿して __
1870年生まれ。14歳の時、英語の専修学校と同志社学校(現在の同志社大学)へ入学する。その後、東京専門学校(早稲田大学の前身)に進学。
卒業後は通訳として活躍しながら、サムライ商会を立ち上げたり、ホテルニューグランド建設に携わったりした。同ホテルの会長を務め、横浜商工会議所の会長としても活躍。
日米協会を立ち上げて終身会長となったことや、横浜ロータリークラブを立ち上げた文化的な業績が評価され、神奈川県や横浜市から文化賞を授与される。95歳没。
明治3年
大野郡公郷村で出生、幼名梅太郎
明治3年、岐阜県揖斐郡鶯村公郷(大野町)。
明治17年
14歳で京都へ出奔、洋三と名乗る
明治18年
東京専門学校入学
明治24年
コロンブス世界博覧会の通訳として渡米
新渡戸稲造と知己となる
明治23年苦難の末、輸出製茶業の市場開拓のため渡米。
東京帝大教授をやめて帰米のボストン美術館東洋部主任アーネスト·フェノロサ、同じく動物学者のE·S·モース、ジアスターゼの高峯譲吉らと知遇を得る。
明治26年
世界宗教大会に円覚寺の釈宗演の通訳で渡米
明治28年
古美術店「サムライ商会」を横浜に開店
ニューヨーク中央鉄道会社社長チャールス·パーソンの日本旅行の案内人として帰国。
エンブレス·オブ·ジャパンの船中で札幌農学校助教授新渡戸稲造(29歳)と意気投合。
武士道の精神を世界に広める商法をすればよいと達観して「サムライ商会」を始める。仕事を通した知遇を日本の政財官界と世界の政財官の橋渡しとして活かす。
関東大震災大正12年三渓と箱根芦之湯別荘去来山荘で過ごし遭遇。サムライ商会の跡地に復興会事務所と臨時共同市場はつくられた。
三渓は生糸貿易復興会、横浜市復興会長になり、その補佐役として縦横無尽に活躍。
明治31年
箱根の旅館「紀伊国屋」長女ミチと結婚
明治32年
原富太郎と知り合い、三溪園造りに協力
明治42年
この頃鈴木大拙と親しくなる
大正5年
横山大観の依頼で印度の詩人タゴールと会う
大正12年
関東大震災でサムライ商会が火災で焼失
昭和13年
ホテルニューグランド会長職に就く
横浜の復興が一段落した頃、ホテルニューグランドの役員となり昭和13年にホテルの経営を任された。
戦後マッカーサーが進駐したとき、このホテルが宿舎となり、洋三は敗戦で物資が乏しいことを訴え市民への食糧放出を依頼している。
あだ名はミスターシェイクハンド。
毎朝ホテルの宿泊客に挨拶しながら握手し、港の周辺を散歩する姿は横浜の名物になっていた。横浜商工会議所会頭や日米文化交流協会会長など横浜の発展に尽力して、昭和40年95歳でなくなった。
昭和14年
師友の人、原富太郎(原三溪)死去
昭和20年
終戦と同時にホテルが進駐軍の司令部に接収
マッカーサーに食糧事情の困窮を訴え、市民への食糧放出をお願いし、実現
昭和21年
神奈川商工会議所会頭となり、25年退任
昭和27年
横浜日米協会会長に就任
昭和40年
95歳にて永眠